春の海すこし鯨の乳まじる
地球をぐるりと回遊し、一年を超える妊娠期間を経て、多くの鯨は春に出産するそうです。地上のどんな哺乳類よりも大きな鯨。赤ちゃん鯨に与えられるお乳はどれほど豊かで、栄養に富むのだろうか。ほんの少しでも海に混じっていることを想像すると、大いなる自然の恵みを感じざるを得ない、そんな思いから詠みました。
「春の海」はのどかに広がる海です。その大きな水のどこかに、鯨の乳が「すこし」混じっているといいます。鯨は水中で子に乳を与えますから、そのいくらかは海へ溶けていくはずです。作者がそれを目にしたわけではないでしょう。けれども、そう言われた途端、あの広い春の海が、乳の白さと温度をかすかに帯びた水に変わります。「すこし」の一語が手柄で、大量ではないからこそ、海の全体に行き渡っている感じが出ました。〈堀田季何〉
二億年待たせてごめん今掘るよ
私は博物館で本物の化石をさわりました。「この化石は土の中で二億年もの間ねむっていたんだな」と想像するとワクワクしました。化石は特別な条件がそろわないとできないそうです。そんな化石が私達の前に現れてくれたのは奇跡だと思います。昔生きていた命に「やっと会えたね」と、奇跡を喜ぶ気持ちで作りました。
化石に向かって、待ち合わせに遅れた友人へ言うような口調で話しかけています。「二億年」という途方もない時間と、「ごめん」「今掘るよ」という軽い口語との落差が、この句のおもしろさです。謝る相手は、地層の下でずっと眠っていた生きもの。掘る側と掘られる側が対等な関係として結ばれています。地質学的な時間を身体感覚に置き換えたところが魅力です。生きものを人間と同じ地平で捉えた金子兜太さんの名前を冠した賞に相応しい作品です。〈堀田季何〉
恐竜の気持ちになって見る火球
ぼくは恐竜が好きでよく図鑑を読んでいます。恐竜は大きな隕石が地球に落ちてきたせいで、絶滅したそうです。テレビのニュースで火球が落ちてきたところを見たとき、思っていたよりずっときれいで、きっと恐竜は自分たちがいなくなるとは思わないまま見ていたのではないかなと思い、この俳句を作りました。
火球は、流れ星のうち、とりわけ明るく燃えながら落ちていくものをいいます。それを見上げながら、作者は恐竜の気持ちになって見ています。恐竜たちも空を横切る光を見上げた日があったはずで、その一つが地球の歴史を変えたとも言われています。同じ空、同じ光を、何千万年もの時間を隔てて共有しているのかもしれません。そう考えた瞬間、夜空の見え方が変わります。「気持ちになって」という素直な言い方が、かえって大きな想像を促します。〈堀田季何〉
席替えで世界の向きが変わる春
進級したり進学したりした時の初回の席替えは、周囲の人が知らない人ばかりで緊張感があり、いままでと見える世界が変わるように感じたことから、この俳句を作りました。
席替えをすれば、窓が右から左になり、黒板の見え方も、隣にいる人も変わります。それを「世界の向きが変わる」と言い切ったところに、この句の強さがあります。教室の中では机一つ分の移動が景色のすべてを入れ替えてしまいます。しかも、季節は春。学年が変わり、顔ぶれも変わる時期です。人生が大きく変わる予感があります。「向き」という語が、机の向きと心の向きの両方を引き受けているのも巧みです。多くの人に覚えのある出来事を、これ以上ない言葉で受け止めた一句です。〈堀田季何〉
誰もいない椅子を寄せてみる夜の端っこ
誰もいないと分かっていても、私は今日も無意識に「誰かのための場所」を作る。誰にも気づかれず、ただ寂しさを埋めるように、時間や世界から外れた、静かで、寒くて、薄暗い部屋の隅で、想い人が座るための椅子を引く、私の様子を詠みました。
少し長めの、ゆったりした調べの句です。誰も座っていない椅子を、自分のほうへ引き寄せてみる。用があるわけではなく、「みる」という言い方のとおり、なんとなく手が動いたのでしょう。効いているのは「夜の端っこ」で、夜が更けた時分とも、夜という広がりの隅、明かりの届かないあたりとも読めます。そしてその隅は、作中の人物がいま身を置いている場所でもあります。まん中ではなく端に、椅子を一つ寄せている。空いた椅子と、端という居場所とが響き合います。〈堀田季何〉
ああ僕はどうしようもなく青蛙
己の未熟さを恥じたり省みたりしつつも、自分の中にあり続ける瑞々しい感覚をなくしたくないと思うようなアンビバレンスを平易で滑稽に詠みたいと創作しました。「どうしようもなく」の部分に自分の統制下におけない感情の揺れを、「青蛙」の部分にマクロな視点で見た悩みの小ささ、滑稽さを託しています。
「青蛙」は、夏の季語です。小さく、鮮やかな緑で、雨戸や葉の上にぺたりと貼りついています。その青蛙に、作者は「ああ」と嘆息しながら自分を重ねます。どうしようもない、とは、直しようがない、生まれつきそうだ、ということ。自嘲のようでいて、開き直りの明るさもあります。私は、〈青蛙おのれもペンキぬりたてか 芥川龍之介〉の本歌取りとして読みました。青蛙の緑は、目立ちたくないのに目立ってしまう色、どうしようもない色でもあります。〈堀田季何〉
金婚式漢方薬のような夫
半世紀にわたり長い夫婦生活を経た二人は、時に意見の食い違いがあってもお互いの良さを認識し合い、一過性ではない努力を重ねることで幸せな関係を築いてきたのだと思います。漢方薬は西洋薬のような即効性っはありませんが、時間の経過に伴い、じわじわと効果が出てきます。年月を重ねた夫婦の絆は漢方薬のようだと感じ、この句を詠みました。
結婚してから五十年、連れ添った相手を漢方薬にたとえました。効き目はすぐには出ません。飲んだ日に劇的なことは起こりません。それでも長く続けるうちに、いつのまにか体質のほうが変わっている。自分にとっての夫という存在を、これ以上ないほど的確に言い当てていて、しかも少し苦い味まで含んでいるのが可笑しいです。褒めているのか呆れているのか判然としないところが、この比喩の妙です。長年ともに暮らしてはじめて言える一言でしょう。〈堀田季何〉
riding with cargo —
pumpkins in the truck
jump all at once
訳/ 積み荷を載せてゆく— トラックのカボチャ いっせいにジャンプ
この俳句は実際の体験に基づいています。ある時、私はカボチャを山積みにしたトラックに乗っていました。トラックが道路の窪みを通るたびに、カボチャがすべて一斉に跳ね上がり、まるで完璧に息の合ったジャンプを披露しているかのようでした。
カボチャの収穫だ。クロアチアでは何月になるだろうか。トラックの荷台に積んでおいて、人間も同じ荷台に乗る。デコボコした農道を走り出す。窪んでいるところを通って、その衝撃がタイヤからもろに伝わり、大小さまざまなカボチャがみんないっせいに跳ねる。こんな瞬間は日本でもアメリカでもメキシコでもどこでも生じている。面白さに気がつき、捉えて爽やかな俳句を作り上げたこの作者も、尻を突き上げられてカボチャたちと同時に跳ねていたはずだ。〈アーサー・ビナード〉