天花粉いのちひとつをくすぐれり
子どもがまだ低学年の頃の、日常の一コマを俳句にしたもので、風呂上がりに「天花粉してぇ」と寄ってくる無邪気な子どもをイメージして作りました。「この命を守らなければ」という親としての想いは自身の生きる支えとなっています。
湯上りの赤ん坊の体を拭き、天花粉をまぶして裸ん坊の体をこすってやると、くすぐったがってキャッキャッと笑います。その柔らかい手ごたえを、いのちひとつをくすぐると捉えたのです。赤ん坊の肌ざわりが、いのちの体感としてこころよく伝わって来ます。「いのちひとつ」に、かけがえのないものの大切さの思いがこめられているようでもありますね。(選評 安西 篤)
目に象が乗っているのかねむすぎる
5時間目の授業で俳句をつくることになったのですが、昼食後という事もあり、とても眠くて、まるでまぶたに象が乗っているかのように重く、勝手に目を閉じてしまう状況を俳句にしました。
春の昼下りの教室。お弁当も食べてしまって、先生のお話もだんだん単調に聞こえてくる頃です。ついうとうととまぶたが下がって来る。これではいけないと懸命に目を開けていようとしても、目に象が乗っかっているかのように重くなってきて、ねむくなるばかりです。「目に象が乗っているのか」という喩え方が、どうしようもない眠たさをうまく捉えています。(選評 安西 篤)
寒い夜コペルニクスをつかみとる
「君たちはどう生きるか」という本を読んでいる中で、主人公のコペル君が寒い夜にかわした叔父さんとのやり取りを通して、未来に向かっていくという場面があり、その様子を思い浮かべながら作った俳句です。
寒い冬の夜です。コペルニクスは星座の発見者の名前で、蟹座ともいわれる星座の別名です。寒いと空気が澄んで星座がよく見えて来ますね。コペルニクス星座が、もうつかみとれんばかりの位置に鮮やかに輝いています。思わず手を伸ばしてつかみとってしまおうとしたのでしょう。でもその手は空をつかむばかりなのですが、そんな気分にさせられるほど素晴らしい冬の夜空です。(選評 安西 篤)
鳳仙花誰も私を見ていない
鳳仙花の種のように、自分は殻にこもったまま誰にも見られず、一人になっていく様子と、鳳仙花の花言葉「私に触れないで」という言葉から、友達なんていらないというプライドにより、一人でいてしまう様子を表現しました。
鳳仙花は、「つまべに」「つまくれない」の名もある赤い秋の草花です。その別名の通り、どこかあでやかな感じもするほどの美しさなのですが、小ぶりの花のせいか、道の辺に咲いているとつい見過ごしてしまい勝ちです。「誰も私を見ていない」とは、ちょっとすねた感じでしょうか。そこがまたこの花の愛らしさともいえます。(選評 安西 篤)
冬の空誰もいないけど誰かいる
春、夏、秋、と自然を賑やかにしてきた虫や動物達がほとんど見られなくなり、寂しくなる冬。しかし冬の空の下でも確かに命をつなぎ、新しい命が生まれている。冬の寂しさを感じつつも、また会うことができる小さな喜びを詠みました。
冬の空は、青く冷たそうでかぎりなく美しい。晴れた日はことにがらんとしていて、誰もいないはずなのに、たしかに誰かいるような気配がして来ます。おそらく作者は、そこに詩につながるような、緊張感のある感動を覚えたのではないでしょうか。「誰もいないけど誰かいる」とは、詩のことばが、間近に聞こえて来ている感じですね。(選評 安西 篤)
真っ白な自由があって入道雲
将来のことで悩んでいた時、空には雲という真っ白なキャンバスが広がっていました。人生には自分で描くことのできる自由がある、と前向きになれた夏に詠んだ俳句です。
入道雲は夏空の雲。夏空はおおらかで躍動的な活気があります。どこまでも青く広がる空に、入道雲がもくもくと湧いてきました。空はなにひとつさえぎるもののない青空、それを「真っ白な自由」と喩えたのです。そうなると入道雲まで、腕をまくり力瘤をあらわに見せて登場してくるような気さえしてきますね。どうぞ存分にと言いたいほど、「真っ白な自由」が効いています。(選評 安西 篤)
夕立や象を洗いてまたたく間
動物園の象舎の前にいた時、夕立が来ました。滝のように降ったあと、素知らぬ顔で去っていきました。象のような巨大な動物でも、一瞬で洗いあげる夕立の見事さ。象たちも、このシャワーを嫌がっていなかったようで、面白い光景だな、と思った時のことを詠んだ俳句です。
夕立は、夏の強い日差しで発生する入道雲などから、にわかに降ってくる局地的な大雨です。象は大きな図体ながらいつもほこりっぽい感じなので、激しい夕立は背や体をまたたく間に洗い流してくれます。象にしてみればシャワーを浴びたような爽快感でしょう。巨大な象の体があっと言う間に洗い流されるのは、見ていても気持ちがいい。下五の「またたく間」が、スピード感もあって見事ですね。(選評 安西 篤)
a jellyfish plays jazz
piano trumpet contrabass and vocal
all alone
訳/ クラゲがやるのはジャズピアノ、トランペット、ベースにボーカルすべて独りで
海をテーマにしたアニメに興味があったので、当初はいろいろな魚が楽器を演奏していたら面白いと思っていました。そんな時、クラゲなら一度に多くの楽器を演奏できるのではと考え、また綺麗で涼しく明るい曲のイメージから、クラゲが演奏するという設定にし、みんなの輪から外れたクラゲが、自身の沢山ある触手でひとり自由に演奏している姿を詠みました。
クラゲの鳴き声を一度も耳にしたことがない。けれど「クラゲが演奏する」と言われてみれば、深くうなずく。常に波といっしょに動き、身体の隅々までが音波を具現しているようだ。もし、たとえるなら、どんなジャンルの音楽か? 作者は観察してジャズだろうと閃き、実感をつかんだ。しかもクラゲジャズは、全部のパートを一匹だけのワンマンバンドが奏でる。そんなクラゲの離れわざを、英語の一句に表わしたのも、また離れわざと言える。(選評 アーサー・ビナード 日本語訳 星野 恒彦)
レモンかむ母の助言を裏切って
写真が趣味で、日常的に写真を撮っています。今回写真フォルダにあったこのレモンの写真を見て、幼少期に母とよく喫茶店に行っていたある日を思い出しました。出てきたレモンがお菓子のように見えて手に取ろうとしたところ、母から「酸っぱいよ」と言われましたが構わず取ると、手についた果汁が酸っぱかった記憶から、このフォト俳句を創作しました。大人になった今でも、喫茶店に行くと、ふと当時の事を思い出します。
俳句も写真も素直で爽やかだった。それぞれにレモンがあるが、この場合、まったく無理なく自然で美しかった。のびのびとした表現が生れて「新俳句フォト」の出発にふさわしい。(選評 浅井 愼平)