伊藤園 お~いお茶新俳句大賞
第十一回
文部大臣賞
図書館の二月の椅子の少年よ
図書館は、以前働いていたこともあり、本好きの私にとっては特別な場所です。2月頃図書館に行った時、目の前で黙々と勉強している少年を見て”フッ”と出てきた句です。大人でも子どもでもない年頃の少年と、年末と新学期の間という曖昧な季節を重ねて詠んだものです。
二月は受験のシーズンである。図書館を利用している学生が多い。室内は静寂そのものだが、どこか空気が張りつめている。固い椅子も気にならない。少年の眼は一途に本にそそがれている。この句はそんな少年の存在そのものを淡々と感情を入れずに素直に書きとってみせた。感情を入れないだけに句にきびしさがある。少年よの〈よ〉に愛情もある。
小学生の部大賞 (幼児含む)
せんたくものへぴかぴか光おりてくる
外に出ると洗濯物が干してあって、それを見たら太陽の光が反射して、洗濯物が光っていました。光が洗濯物に降りてくるように見えて作った作品です。
洗濯ものが干してあって、白いものが多いので、日のひかりがつよいときは光って風にゆれている。それを作者は、ぴかぴかの光の精が空からおりてきているのだと思った。この句の下句の〈光おりてくる〉の感じがとても素直で新しい発見がある。
中学生の部大賞
全宇宙真っ黒だけどぼくがいる
授業で俳句を作ることになった時、大きさを感じる言葉を考えて”宇宙”というキーワードにしました。広い宇宙は真っ黒だけど、その中に地球があり、地球の中に存在する自分を表現しようと出来た句です。
大きなスケールの句で、たしかに人工衛星がとぶ地球の上も、それを離れて宇宙を見ると、まさに真っ黒な暗黒の世界がひろがっている。どこまで行っても真っ黒なのだ。しかし、そのことを考えながら宇宙に生きている一つの存在としての自分を強く感じるのだ。
高校生の部大賞
誕生花と知ってかわいい猫柳
学校で俳句を作ることになった時、校内に貼ってあった花博のポスターに目が止まりました。365日の誕生花が載っていて、自分のが猫柳だとわかり、そう思うと猫柳もいいもんだなぁとしみじみ思いました。
誕生日の花のカレンダーが表になっている。作者は今迄は学校へ行く途中の道に咲いている猫柳に、あまり関心がなかったのだが、自分の誕生日の花暦が猫柳だと知って、それからは関心が湧いた。そんな眼でみると猫柳ってかわいいなァと本当に思うようになった。
一般の部A大賞 (40歳未満)
鳥になるまでゆれている烏瓜
自宅の庭に烏瓜がなっていて、その赤い実が風に揺れているのを見ていたら、まるで小鳥が枝にとまっているように見えまいた。本当に赤い鳥になってどこかへ飛んで行ったらおもしろいなと思って詠みました。
目の前にゆれている烏瓜がある。風があっても無くても、ゆれるのが自然の理らしい。いっそ烏瓜がいつまでゆれているのか、毎日たしかめてみよう。ひょっとしたら烏瓜をついばみにくる鳥と同じようにゆれながら鳥そのものに化けるかも知れない。文字が似ているし、字の画数も似ている。ほんとかも。
一般の部B大賞 (65歳未満)
明日に向く枯木の枝の先の先
冬の寒さが苦手で、春を待ち望んでいたました。海棠の木をベランダに置いてるのですが、その木が少しずつ春に向けて成長している様に見えて詠んだ作品です。「明日」は春を表しています。
枯れ木と言えども木は木だ。その枝のいくつかの先を、一度ゆっくり見てみたい。明日というものは必ず来る。その明日を枯木の枝の先は指しているのではないか。自分の眼で追って、その枝の方向に明日のあかるさと希望が見えるではないか。それを信じよう。
一般の部C大賞 (65歳以上)
秋うらら鯰笑ひしほどの波
自宅の近くの丸山公園の広い池に行った時、向こう岸に一列に並んでいる釣り人が見えました。その釣り人の整然とした様子が妙に可笑しく、池の中の鯰もそれを見て笑っているだろうなと思い、句にしました。
俳句にも笑いと滑稽が重要だ。秋のうららかな水辺に、ときに波が立つときがある。さては騒いでは地震を起こす大鯰の仕業ではないか。いやなまずが暴れたのではなく、単に笑ったぐらいの波の立ちかただろうと推測したり、鯰を身に近づけて考えたユーモア溢れる一作。
英語俳句の部大賞
in the flames
our old love letters
curled up together
訳/ 吾らの古いラブレター共に炎を巻き上る
古い手紙を焼くという歌詞はいささか常套の批判を受け易いが、この句ではcurled up togetherで心をうたれた。加えてジトウィッツ先生はリズムの良さをも褒められている。「他人を感動させるにはまず自分が感動せねばならぬ。そうでなければ如何に巧みな作品でも決して生命はない。」ルソー