花鳥風月私はここに海入れる
俳句を作る前に「花鳥風月」という言葉を聞き、良い言葉だなと思い、綺麗な海を連想しました。海も自然界の美しい景物のひとつだと思ったからです。また海外にもたくさん美しい海があり、外国の人にも「花鳥風月」という言葉を知ってもらうきっかけになったり、これからもっと海をキレイにしていかないと、と思ってもらえるようにこの俳句を作りました。
「花鳥風月」とは、和歌以来の伝統的季語で、竪題季語(月・雪・花・時鳥・鷹・鹿・紅葉)とも言います。ですから海を入れることは本来できないのですが、ここは作者の想像力で、海を入れてみたい、私ならそうすると言うのです。たしかに日本のような四海海の島国なら、そういう発想があって当然でしょうね。でもここは、文化遺産としての季語の定義ですから、あくまでも作者の想像の世界の、若々しいこころのはばたきとしておきましょう。だからこそこの句が面白いのです。 (選評 安西 篤)
ぬか床に太古の祖母が住みにけり
私が子供の頃、祖母は毎日ぬか床をかき混ぜていたので、手はいつもぬかの匂いがしました。時は流れアラフォーになった私は、ぬか漬けをはじめました。ぬかの匂いを嗅ぐたびに、祖母を思い出します。またぬか床をかき混ぜてキュウリなど野菜を取り出すことが、地層から化石を発掘するのに似てると感じ、祖母の懐かしさも掘り起こすことからこの俳句を作りました。
ぬか床は、ことに田舎の人々の暮しの中で代々受け継がれているものでしょう。「太古の祖母」という表現には、幾代にもわたる先祖の暮しの知恵が伝わっているに違いありません。まこと作者の言うように、懐かしい祖母の匂いも込められています。それは脈々たる秘伝を伝えるものであり、作者もまたそのぬか床を受け継いで、子や孫たちに伝えていこうと決めているのです。下五「住みにけり」の切字に、その決意の響きを感じます。 (選評 安西 篤)
著ぶくれてやる氣出るのを待つてゐる
宿題にとりかかる気になれないときに、この俳句を詠みました。「著ぶくれ」という季語を使ったら面白いのではないかと思い、やる気が出ない感じを、国語辞典などで調べ旧かなづかいで表現しました。
冬の朝など、寒さは寒し着ぶくれて、体は身動きしたくないほど縮こまっています。それでも今日やらなければならない事があることはわかっているので、気持ちだけは焦っているのに、一向にやる気が起こらない。どうにも体がいうことを聞きません。じんわりと温まって、やる気がでるのを待っているところです。お母さん、もうちょっと待ってね。旧かなづかいへの配慮は、作者自身の生活感に合っているのでしょうか。十一歳なのにすごい言語感覚ですね。 (選評 安西 篤)
冬の昼リモートワークの父の声
冬の寒い日の昼に、リモートワークをする父の声が隣の部屋から聞こえてきました。いつもは忙しく家にいない父ですが、外出自粛期間は家にいる機会が増え、家族の距離がさらに縮まったと感じました。今は厳しい世の中ではありますが、なんだかほっと温かみを感じた時の思いを俳句にしました。
コロナ禍後、在宅のリモートワークがかなり普及しているようです。会社勤めの人にとって、仕事の効率はどうなのかわかりませんが、父親が家にいるのは、子供にとってはやはり嬉しいことに違いありません。高度成長時代のように、「フロ、メシ、ネル」の三言で済ます父親とは大違いです。たとえリモートワークで、子供の相手はしてくれなくても、家の中にいるという存在感の大きさは、頼もしいものです。父親がいるだけで温かみを感じるという素直ないじらしさが、とてもいい。 (選評 安西 篤)
君の青を枯野に転写してくれないか
枯野には「寂しさ」というイメージがあり、「君」とは、現在恋をしている人のこと、「青」というのは、青春を象徴するものとして、好きな人の「青春」を寂しい枯野に映して欲しいという気持ちを表現した俳句です。
君の青春を、僕の寂しい枯野のような心に転写してくれないかという暗黙の愛の告白。若い人にしては、かなりつつまし気なプロポーズですが、案外こういうソフトなアプローチに弱い人もいますから、恋の第一フェーズとしてはいいところなのかも知れません。「転写」という言い方に、デジタルネイティブな世代のボキャブラリーを感じて、ちょっとお洒落にも見えました。 (選評 安西 篤)
リュックから飛び出す葱のこころざし
リュックサックに買ったものを詰めて帰る途中、振り返ると、飛び出した葱がなんだか凛々しく見えました。その時感じたことを詠みました。
リュックに挿し込んである長葱が、端から頭を飛び出しています。そんな葱のありように、葱には葱の志があって世にでようとしているように感じたということでしょうか。その葱の姿に、今に見ていろ僕だってとばかり、触発されるものを感じたのかもしれません。一種の擬人化の捉え方で、作者自身の思いを述べているようでもありますね (選評 安西 篤)
名月やきれいな音のでる薬缶
夫は単身赴任中、娘たちはまだ帰宅していない日の夕食後、ベランダから見えた満月に見とれていた時、突然鳴り出した笛吹ケトルの音色が特別きれいな音を奏でているように思いました。遠く離れた夫も東京の空に輝くこの名月を見ているだろうか、と思った時のことを詠みました。
物思いにふけりながら名月を見ていたら、湯を沸かしていた薬缶が、突然笛のようなきれいな音をたてました。湯の沸いた知らせですが、なにやらささやかながら大宮人の月見の宴の風情を、一瞬感じたのかも知れません。作者のロマンティックな物思いに、思いがけないBGMを添えたような月見の夜となりました。 (選評 安西 篤)
Long-distance running
I don't want to do it
Long-distance running
訳/ 長距離走ぼくはやりたくない長距離走
校庭を走る長距離走をイメージしましたが、長距離走はなかなか終わりがなく、しかもマスクをしていて息苦しいので、好きではありません。しかしそれは今のコロナ禍と共通すると思い、それらを併せて、学校生活での自分の正直な気持ちを表現しました。また同じ語句を二回使って俳句らしさを出そうと思いました。
「予算は31万円しかないから大事に使え!」 短歌の師匠は、歌作りを経済活動にたとえて、ぼくを指導していた。俳句の予算ときたら、もっと少なくて17ぽっきり。英語でもHAIKUは一番短い定型詩であり無駄なワードは禁物。となれば第三十二回のこの大賞作品は駄句だろう。長距離走という、俳句に向かない題材だし……いや、しかし、にもかかわらず、名句だ。主人公はイヤイヤながら部活をやらされ、そのしんどさを中心に据えて、あり得ない反復を使い、これまでの作句のメソッドを壊した。「無駄使い」ではなく「離れ業」だ。 (選評 アーサー・ビナード 日本語訳 星野 恒彦)
けど明日は光の中の古写真
妹と一緒に海に行った際に撮影した写真なのですが、この写真を後に見た時、自分自身はその時の情景を覚えていますが、第三者にとっては単なる古写真でしかないのだろうな、という気持ちを俳句にしました。
新俳句フォト作品は、写真と俳句で一つの作品になりますが、方法論が決定的でない中、この作品は絶妙に写真と俳句の関係を意識して、双方が明確な形で構成されている繊細さが魅力です。ひとつの手法として審査する側にも素直に入ってくる素敵な作品でした。 (選評 浅井 愼平)