伊藤園 お~いお茶新俳句大賞
第二十八回
審査員賞
なわとび百回足がこんにゃくだ
縄跳び競争で、ぼくなら百回やれると啖呵を切った手前、意地になって跳び続け、なんとか百回をクリアした途端、足がへなへなとこんにゃくのようになってしまった。意地を通した報いと誇りを、同時に味わいながら。
九九習い祖父と歩いた尾瀬の道
幸せですね。おじいさまと尾瀬ヶ原を行くなんて。さらにそのとき、二人で九九を口ずさみながら歩き進んでゆくのですから。祖父と孫の心の絆が一行十七音字の世界に見事に書きとどめられています。
一音にすべてをのせたコンクール
一音の大切さ。私も感じることがよくあります。‘すべてをのせた’というところに、ご本人の努力、緊張感、仲間との連帯感、先生のご指導への感謝、色々な気持ちを感じ取ることができます。結果も大事ですが、そこに至るまでのプロセスも大事!ですよね。
寒すぎて耳まだあるか確かめる
このユーモアが素敵です。耳が千切れる程寒い、という言葉がありますが、その実感を、このような句にした、そこが好きですね。寒すぎるのは嫌ですが、ぽんと飛び越えて、笑わせてしまう。このセンス!いいです。
満月が出た次の日にひげをそる
月の満ち欠けを意識する暮らしぶりに、南国の大家族が浮かんだ。祖父母が頼もしく見ている。沖縄県と知り、風土感と言おうか、沖縄の人の体感まで感じられ、沖縄に関心の深い、いや親しみの深い小生には離れがたい句。
感傷や千年過ぎし朧月
人のこころの内にある時間と空間の感覚。その詩情にぼくは立ち止まり深く頷きました。
後でやるやる気になればの話だが
誰にでも覚えのあること。一見俳句的怠惰さであり、俳句的居直りとして非難されるかもしれないのですが、俳句的潔さは、俳句的な深い生き方です。俳句的人生訓をきれいに書きとめています。
水母には行きたいところがあるのです
ゆらゆらふらふら漂っているように見えるけれど、確かにクラゲはただ流されているのではないのかもしれない。何かに逆らったり順応したりして、おおらかに静かに行き先を目指しているのかも。柔らかい句です。
廃校の百葉箱の息遣い
廃校の校庭の片隅で、白いペンキの剥げ落ちた百葉箱だけがひそかに息づいています。その中に封じ込まれているのは楽しい思い出でしょうか。それとも、もうこの世に放たれることのない切実で不穏な祈りでしょうか。