二億年の地層の春っぽい部分
恐竜の研究をしている方の講演を聞く機会があり、地層の面白さ、奥深さを知ってつくりました。その方の講演で印象的だったのが、「地層から何かを発掘するときは、見つかると思っていないと見つからないのです」という話で、この作品の“春っぽい部分”というのは、具体的に春を感じる部分が見えたのではなく、地層の中にも春を感じるような部分があると思っていれば、それを発見できるのでは、という気持ちを表現しました。
早春の切り立つ崖に、二億年前ともおぼしき地層の断面を見たのです。その断面の綾なす模様に、春を思わせる気配を宿しているからでしょう。スケールの大きい地層にも、今につながる季節の彩りの変化が滲み出て来ると、地層の表情もにわかに身近に感じられる部分があるように思われます。「春っぽい部分」とは、その春めく身近さが、なんとなく表情にも現れるからに違いありません。友達とのいつもの親し気な話しっぷりで、身近感が一層迫ります。〈安西 篤〉
ランドセル暴れる文豪つめこんで
高学年になり、文豪の文学作品が大好きになった私は、ひどい時には毎日ランドセルに10冊もの本を詰め込んで登校していました。特にお気に入りだった乱歩や太宰の本達が、毎朝「今日も連れて行きなさい!私の作品から読みなさい!」と暴れているような気がして、嬉しくて駆け出す自分の光景も含めて詠みました。
今日も大好きな文豪作品をランドセルにつめこんで、友達にも自慢げに見せたり話したりしようとしています。皆の興味深か気な羨ましそうな顔が楽しみで、急いでいるのでしょう。文豪作品もワーイと喜んでランドセルの中で暴れているようですね。そんな作品達をつめこんだあたりが、兜太賞にふさわしい行動的な言い切り方。〈安西 篤〉
ふでばこにしまうやわらかいはるのくさ
学校とは反対側にある家の近くの公園で、よく四葉のクローバーを探しています。筆箱の中にクローバーが入っていたらいいなと思い、入っていることを想像してこの俳句をつくりました。
春になって、元気よく育ったやわらかい草を摘んできて、ふでばこにしまっておきます。すると、なんだか春の草から元気をもらったような気持ちになってきて、ふでばこの中の鉛筆までが、春の陽気に誘われて嬉しそうに感じられます。〈安西 篤〉
コーンスープ残り一粒反抗期
冬に寒くて自販機のコーンスープを買って飲んだ時、最後のコーン粒が缶からなかなか出てきませんでした。ちょうどその時期は自分自身反抗期でもあったので、自分の言うことを聞いてくれないコーンの粒も、反抗期なのだろうと思ったことを思い出してつくった俳句です。
コーンスープをおいしそうに頂いています。うまい。コーンの一粒一粒の口当たりに、軽い抵抗感があって、その食べ応えがなんとも言えない旨味です。コーンの残り一粒を丹念に噛んでみると、その名残り惜しいばかりの噛み応えが、反抗期の子の最後の意地っぱりのようで、かえって愛らしい気がしてきますね。〈安西 篤〉
鯨鳴く届かぬ声は僕が聴く
推しのVチューバ―が卒業してしまい、ショックで立ち直れない頃、「52ヘルツの鯨」のことを知りました。その鯨の声は世界で唯一の周波数のため、他の鯨には届かないそうです。私の推しはイメージカラーが青で、優しい雰囲気であることから、自分の中では推しと「52ヘルツの鯨」とが重なり、「もし私が52ヘルツの声を聴けたなら、まだ推しの声も聴けただろうか?いや、聴けたに違いない。だから意地で聴くのだ。」と思っていたことから詠んだ俳句です。
鯨は、声帯がないために、鼻の奥にあるひだを振動させて音を出すのだそうです。その独特の声は、届きにくいものでしょうが、僕なら鯨の気持ちを察して聴いてやれるよというのでしょう。十八才の作者の、届かぬ思いの丈のように、僕なら察してやれるのにと思っているからではないでしょうか。〈安西 篤〉
日記書く自分と飲みに行きたい日
「もうひとりの“自分”がいたら、いいのにな」と思う日があります。“自分”と飲みに行って、自分が感じたみじめさをしゃべりたい、聞いてもらいたい、という気持ちを表現しました。実際は、そんな日には日記を書いて、その思いを鎮めます。
いつもの日記を書いている或る日、なんだかくさくさして、やり切れないようなうんざりした気分がしています。こんな日は、ほかの誰でもなく、そんな自分だけと一緒に飲みに行きたいなと思う。飲んで一度きれいさっぱりと、自分をリセットしたい気持ちです。そんな気分を日記に書いて、そうすればよかったと悔いているのです。でも、日記に書いただけでも少しは落ち着いたのではないでしょうか。〈安西 篤〉
グレイヘアの紅いヘアピン若葉風
若葉風が吹く春の朝、海に続く川沿いの道を夫と散歩中に、綺麗なグレイへアの髪を紅いヘアピンで留めた同年代の女性と出会いました。若々しく爽やかで、またグレイと紅色のコントラストがとても合っていたのが印象に残り、その時のことを詠みました。
高齢の婦人の品のいいグレイヘアに、紅いヘアピンが覗いています。そのさりげないお洒落が、とてもチャーミングで、若葉風の吹き渡る川沿いの道に、しっとりした情感のようなピンポイントをもたらしています。夫との散歩の途中で、そんな人とすれ違っただけなのに、なぜかその川沿いの道が、もっと好きな道になったのかも知れません。私もあんな風に老いたいなとも思いつつ。〈安西 篤〉
first date wrong shoes can't concentrate 訳/ 初めてのデート この靴じゃなかった ずっとうわのそら
自分の初デートの失敗談を俳句にしました。初デート、少しでも可愛く見られたくておしゃれをしたけれど、慣れない靴をはいて靴ズレになってしまい、デートに集中できずに過ごしてしまった、苦いけど甘酸っぱい青春を詠みました。
初デートは緊張する。相手と波長が合えば楽しく広がるが、ぎこちないまま終わる可能性もある。魅力的な自分を演じたいのに、途中で「この靴じゃなかった!」と気づき、ひどく気にしている。そんな流れを、この句は鮮やかに語順だけで語る。しかもdateとconcentrateで韻を踏んでいる。小説家のフィッツジェラルドは昔「魅力とは、自分のことをまるで気にせずにのびのびと振る舞う状態だ」と解説した。果たしてデート終了まで、作者は靴事件を引きずったのか、続きの句も読みたい。〈選評 アーサー・ビナード 日本語直訳 星野 恒彦〉
元旦に友と二人で待つ日の出
普段なかなか会えない幼馴染と久しぶりに再会し、日の出を見にいこうと近くの海岸に行き、初日の出を待っているときに撮った写真です。久しぶりに会ったこともあり、会話もはずみ、焚き火のぱちぱちという音を聞きながら日の出を待つ時間もあっという間に過ぎていきました。2024年がいい年になるよう願いながら日の出を待つ、そのときの様子をシンプルに詠んだのがこの俳句です。
俳句は一件凡庸に見えるが、日の出と人間の関係が見事に描かれている。写真のスケールが身近な焚火から、はるか遠い宇宙までつながっているように感じられ、自然な感じでありながら、こまやかで鋭い神経が俳句と写真に覗きみられた。俳句がもっている季節感をしっかり踏んでいて、奥行きのある俳句と写真だったと思う。(選評 浅井 愼平)