雪がふる一つ一つに雪の神
この俳句は冬に雪をイメージしてつくりました。もともと雪が多い地域ではないのですが、珍しく雪が降り、校庭一面が真っ白になりました。そんな景色を見ながら、なぜ雪は空から降ってくるのか不思議に感じ、神様が宿っているのかなと思ったことを詠みました。
雪がふる。その一つ一つの雪片は、六花の結晶で、空から音もなくきらきらと舞い降りて来ます。その途中でぶつかり合ったり重なり合ったりして、大きな雪片となって降ってくるのです。降り注ぐ一つ一つの雪片を、神様の降臨のような、大自然の意志のようにも見て、おごそかな気持ちで両手で受け止め、あるいは腕を広げて体全体で浴びているのではないでしょうか。不思議さに有難さが溶け込んで、しーんとした気分になりますね。〈安西 篤〉
秋の夜獣になって走りけり
コロナの影響を受けて2度延期になった修学旅行に、10月行くことができ、その時のことを詠みました。京都、奈良の二泊三日の旅の間友だちと一緒に行動でき、また宿泊先では、修学旅行に行けた歓びやそれまでの行動制限で我慢していたものが弾け、友人たちと廊下や部屋中をはしゃぎ回りました。その様子が、まるで周囲を気にしないで走り回る獣のようだったなあと思い返し「獣」と表現しました。とても楽しかったので、消灯後も走り回っていたため先生にも叱られましたが、それも良い思い出になりました。
秋の夜、急に何かに憑かれたように体の中に衝動が込み上げてきたのでしょう。それは思春期特有の故知らぬ衝動なのかもしれません。思わず声を挙げたくなるような気持ちで、夜の闇に身を揉みこむように、獣になった気分で走り込んでいく。それを「獣になって走りけり」といったのです。若いいのちの叫びのような全心身運動といえるものかも知れません。〈安西 篤〉
ロボットのむねの歯車春を待つ
クリスマスプレゼントに組み立て式のロボットをもらいました。完成すると目が光ったり、動くものをよけて歩いたり、逆について行ったりするモードのあるロボットです。むねの歯車の部分を組み立てるのが一番難しかったです。完成するのが楽しみな気持ちで組み立てました。ロボットもきっと完成して動けるようになるのが楽しみだったと思います。そのことを春を待つ、という言葉にこめて俳句をつくりました。
動くロボット人形が、玩具箱か倉庫の隅に置かれています。外は雪でしょうか。今は動くこともなく、一個の静止したモノとなっているのです。やがて春になれば、子供たちの遊び相手として、むねの歯車の螺子を巻いて動き出すのでしょう。それまではひたすら静かに、じっと我慢の子となって春を待っています。〈安西 篤〉
単身の父住む街の冬銀河
私の父は単身赴任しています。赴任地へ向かう父を空港まで家族で見送りに行った日、空には冬銀河がキラキラ輝いていました。たまに家族と会い、別れる時、父は決して「寂しい」とは言いませんが、その背中は何か寂しく、そう言っているように見えたので、その想いを俳句に表現しました。
お父さんが地方へ転勤となり、今は家族と別れて暮らしています。見上げる夜空の冬銀河は、お父さんの住む街にもかかっていて、同じようにこの冬銀河を見上げ、家族のことを思っているのかもしれません。単身赴任のお父さんも淋しいでしょう。早く会いたいなあという気持ちが、冬銀河に照り映えています。〈安西 篤〉
石こうと夏の教室二人きり
美術専攻の夏期講習でデッサンの授業を選択し、その日は授業後も石こうのマルス像を夢中でデッサンしていました。集中していたので気が付かなかったが、ふと周りを見ると製図室には自分しかおらず、自分と石こう像の二人しか教室に残っていなかった時のことを詠みました。
放課後も教室に居残って、図工の課題の石膏像と取り組んでいます。この場合、「二人きり」の中味をどう受け取るのか。文脈からは、石膏像と二人きりと読めます。石膏像を作っている間に、いつか相棒のように呼びかけていたのかもしれません。この思い入れが、夏の教室をいのちの通い合いのように感じさせたのです。〈安西 篤〉
カマキリの目力無人直売所
野菜や花の無人直売所でカマキリに出会いました。獲物を待つそのカマキリの目に力強さを感じ、鋭い視線が、お金を払わない人を威圧し、見張っているように感じたことを表現しました。
無人直売所は、畑に近い路傍の小さな屋台風の掘立て小屋です。そこに置かれている野菜は新鮮で、おそらく朝採りのものでしょう。カマキリはその野菜を狙う生きものたちを許せないとみているのです。まだ誰も来る気配はありません。カマキリの目力がらんらんと輝いて来て、そろりと足を踏み出したところでしょうか。〈安西 篤〉
二才児のうずまきだけの年賀状
今は成人した子どもがまだ幼かった時のことです。その子がやっと細い線が書けるようになったので、「何か書いてね」と祖父母宛ての年賀葉書を渡しました。子どもはそれをじっと見て、やおら何の迷いもなく渦巻きをいっぱい書いたので、「何だこれ」と笑ってしまいました。賀状は新年を祝う物、という事など関係なしに、懸命に書いている姿は健気で、意味不明なことも無性に可愛く思え、その子どもの成長まで感じた時のことを詠みました。
二才児は、作者の年齢からみておそらくお孫さんでしょう。両親の年賀状に添え書きした孫のうずまきは、まだ字は書けないながら、精一杯のご挨拶の気持ちを表しています。舌のよく回らない言葉そのもののようにも受け取れて、たまらなく可愛い。その肉声に触れてみるように、筆跡をなぞっています。うずまきにいのちの渦を感じながら。〈安西 篤〉
looking for girl names
we pick
wildflowers
訳/ 娘の名を求めながら野の花を摘むわたしたち
私たちは子どもを望んでいませんでしたが、今後の生活を描いた時、子どもは1人か2人が理想的という話になりました。男の子の名前はすぐ決まりましたが、女の子はとても難しいと感じていました。私たちは花の名前が好きで、この俳句は明るい春の朝に、野に咲く花のように心に浮かびました。「ワイルドフラワー」とたとえたのは、見える花であればどんな花でも言い表すことができるように、娘の名も将来の娘に合うと思えば、どんな名前でもふさわしいと感じるからです。
授かるかもしれない娘のため、よい名前を探し求めながら、野に出て可憐な花を摘む二人。花の名にあやかりたいのか、とにかく何かインスピレーションを得たいわけです。素朴な親の愛情が、野花をめでる心と重なり、美しい景のもと、味わい深い句となりました。「野の花」は秋の季語とされますが、アメリカ人の作ですから、春や夏の野かも知れませんね。〈選評/日本語直訳 星野 恒彦〉
切れかけた蛍光灯を置いて行く
写真は学生生活含め5年半住んでいた岡山から婚約者の待つ兵庫に引っ越す際、トラックを待っている間に撮影しました。大学生活は全てが順調ではなかったのですが、そんな自分を受け入れてくれた部屋で、インテリアに凝るようなこともなく、蛍光灯も途中から切れかけていたのになんとなく放置してしまったが、いざ引っ越すとなると実は愛着があったんだなと感じて、その想いを写真と俳句で表現しました。
誰もが人生の中で経験する引っ越しのような写真や俳句にしないところに視点を向け、その時のちょっとした気持ち、気づいても俳句にするかという際どいところを表現している。見過ごしそうな話であるのに、でも人生の中のいくつかの句読点の中に入れ込んできた作者の感受性の豊かさというか、個性が感じられました。このような情景を言葉に残すのは俳句の技の一つですが、人の心に印象を残せる作者の人柄が好ましい。写真も凡庸に見えますが、実は結構神経使っていて、人物の顔が映ってないのも技がありますね。俳句と写真のディテールが、ものすごく繊細でありながら無理なく非常にすんなりと入ってきます。〈浅井 愼平〉