伊藤園 お~いお茶新俳句大賞
第二十五回
審査員賞
パパとじじぼくがならんでうり三つ
八歳の雄磨君の作品にひかれたのは、「うり三つ」と、パパと祖父と自分がよく似ているのを、気持ちよさそうに自慢げに、スパッと言っている、その少年らしさが好きだったから。それに「三つ」とは愉快。
六年後大人になんてなれるかな
ぼくにしても、中学生の頃、ずっとそう思っていました。そして、いまも。優月さんは素直に書いたのでしょうが、この句は現代日本への痛烈なコピーになっています。モノクロのクラス写真に、この句を大きく入れたポスターを想像しました。
ほくほくとかぼちゃのように笑う母
冬場の温かい家庭料理にかぼちゃの煮付けがある。煮立ったばかりのかぼちゃを頬ばる感じが、「ほくほくと」だろう。家族皆で食べているのだが、中でも作ってくれた母の笑顔は、「かぼちゃのように」明るく楽しげに見える。おそらく皆の美味しそうな食べぶりに、満足しているからにちがいない。「かぼちゃ」の形容が決め手。
母になる私を映す春の川
春の川がこの句のよさを決めています。はじめてのお子さんの誕生を待っている若い女性のよろこびと期待といささかの不安と。そんな人間のすがた、こころのありようすべてを春の川が受けとめ支えているのです。
人間は可笑し山椒魚もまた
人間と山椒魚の出会いを素直に個性的にまるで自然に口をついて出たように句にしている。なんだか温かく、とても気持ちがいい。作者も素敵で可笑しい。
ああ今日は父の日だったと米を研ぎ
非日常の事態がやってきたときこそ、父の出番、父が頼り。しかし毎日のほとんどは、いつもの日常、父は非番、平和。一言一言の選定が、穏やかな暮らしを代弁しているようです。
日向ぼこどちらも無口雲笑ふ
信頼し合っているお二人、言葉なんていらない、日向ぼこ、いい気持ち。なんて長閑なひとときなのでしょう。紫外線を恐がっているようでは、この幸せな時間はやって来ませんね。反省。