ねるまえにもう一ど見る雪だるま
ずっと前、横浜に雪が降ったとき、雪だるまをつくったけど、朝にはとけて悲しかった。今年のお正月おとうさんのいる札幌でみんなで雪だるまをつくった。溶けないか心配で何度も何度も見に行った。俳句の作り方はおばあちゃんに教えてもらいました。
雪の朝お父さんと一緒につくった雪だるまを今日は何度外に出て眺めたことでしょう。歯をみがき、おしっこして、さあ寝る前に縁側に出て…。拓馬君は、明日の朝まで外にいる少し小さくなった雪だるまに、もう一度確かめてからおやすみがいいたかったのでしょう。
兜虫おまえもひどい日焼けだな
子どもの頃、夏休みには兜虫を捕りに行ったりして、真っ黒になるまで日焼けしながら遊んでいました。だけど、いくら日焼けしたところで黒光りしている兜虫には到底かないません。そんな昔のことを思い出しながら俳句にまとめてみました。
即座に竜之介の青蛙の句を思い浮かべる。だが決してそれにひけをとらない。芥川は青蛙に問い掛けたが、作者は兜虫にそうだと決めた呼び方で心から同情している。栗色に輝く兜虫の体をひどい日焼けだと呼びかけた優しさがいい。「ひどい」という言葉が効いている。
ポケットから手を出しさわる春の風
本当に手を出してさわったわけではありませんが、春の風を感じて、なんだか嬉しくなって…。そのときの気持ちをそのまま俳句にしました。俳句に凝っているというより、何かをふと感じたときに五七五で書きとめておく、これもそんな中のひとつです。
寒い日が続き、街を歩く人々の手はポケットを離れない。ある朝ふと何気なく春の気配を感じ手を出してみたら、触れてたのは確かに春の風だった。作者はその感触をまるで自分の手で触れるようにして確かめた。これからはポケットと縁遠くなるだろうこの手…。まだほの寒い早春がよく詠まれている。
抱いた子を野薔薇のように渡したの
抱いていた甥のこどもを、お母さんが帰って来たので手渡そうとした、そのときのこどもの愛らしさを思い出しながら作品にまとめました。自分で俳句を書くことなんてほとんどなく、たまたま書いたものが大賞だと聞いてびっくりしています。本当にありがとうございます。
「野薔薇のように」という形容がいい。母性本能と言うのだろうか、おそらく子どもを育てたことのある女性が一様にいだく心情だと思われる。繊細で愛らしくそして健気な子どもを手渡したあとも、その子に愛情を投げかけていることが、「渡したの」という柔らかなことばから感じられる。
象も来てゐる涅槃図の重さかな
テレビを見ておりましたら、いくつも涅槃図が紹介されており、その中には、悲しみ集まっている動物たちにあの大きくて重い象が描かれているものがありました。それを見た途端、ブラウン管の中の涅槃図が、急に実物のようにずっしりと重く感じられました。
涅槃図とはお釈迦様の入滅(亡くなること)を描いたもので、二月一五日の涅槃会(ねはんえ)の時に寺々で用いられる仏教画。実際に大きくて重々しいもの。作者は、地上で最も大きく重い動物の象のイメージから、実際の涅槃図の重量感や質感を思いおこし、厳粛な世界に吸い込まれたのだ。
Crabs searching
the stars fallen on the sea
the sky rummaged by claws
訳/ 海に落ちた星を探す蟹たち…その爪あとを大空に…
海に落ちた星…その海の中で星を探す蟹たちへのイメージ…その海の空に蟹の爪あとをイメージしたファンタスティックで素晴らしい作品です。詩的であり、また俳句の心をしっかり感じさせてくれます。俳句をエンジョイする気持ちは世界共通ですね。